The Kamakura Print Collection, Photogravure Etchings by Peter Miller

妙隆寺にある日親上人の像。。

Beyond Pain and Suffering
ピーター・ミラー、tr 玄 真琴、かまくら春秋 No. 255, 2016.7

妙隆寺にある日親上人の像は、年月によって黒い色を帯びているが、その姿は穏やかでありながら燃え立つような決意を発散していることは、私のように事情の知らない者が見ても明らかだ。妙隆寺はたびたび自転車で通りかかっていたが、入り口のそばの魅力的な桜の木に目を引かれただけで、最近まで中を見たことがなかった。日親上人の像には、将軍の威厳も、武士の勇ましさも、仏の情け深さも感じられない。そこにあるのは、苦難を通じてのみ得られるような知恵である。ひどい傷を負っているにもかかわらず、その顔には苦痛の気配はなく、その目ははるか遠くにある理想に据えられ、肉体の感覚から完全に解き放たれている。なぜならこれは聖人であり、自由な思想のために果敢に権威に挑戦した殉教者だからだ。日蓮宗を開いた日蓮と同様に、宗祖の志を継いだ日親は、大胆にも時の権力者を諌めた。そのために日親は投獄され、拷問を受けたが、焼けた鍋を頭にかぶせられたことはとくに有名で、「鍋かむり日親」として広く知られ、一般大衆に愛されるようになった。

 写経のために墨に自らの血を混ぜ、真冬の氷のように冷たい水風呂に入り、極端な暑さや寒さに耐えるなど、肉体的苦痛をまったくかえりみない苦行は、今日では想像することさえ難しいが、日蓮宗の信仰を通じ、日親上人はそのすべてを実践した。その驚くべき自己犠牲を支えたゆるぎない信念は、今日では存在しないようなものだ。ここ鎌倉に、万人のために自らの幸福を犠牲にした人物がいたこと、さらに正確にいうなら、自らの肉体的存在をすべての者の幸福の中に溶け込ませた人物がいたことを思い起こすと、自分が抱えている問題など、どれもささいなものばかりだと気づかされる。だからこそ、自転車に乗って妙隆寺を通りかかるとき、向かってく自動車やトラックに自分の肉体的存在を消されないよう気をつけながら、日親上人の信じられないほどの忍耐力に思いをはせるのだ。

日親上人の像

日親上人の像

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